軍事アレルギーの広がる日本。 これは、外交的にマイナス要因であり、未来に不安を残すものです。 そうしたアレルギーがなくなればいいと「軍事」についてお話していきたいと思います。
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軍事や国防に関する「学問」で、「戦争学」とも呼ばれますが我が国では「防衛学」とも呼ばれます。
日本の大学では完全に敬遠されていますが、日本以外の国の大学では「戦争学」が学ぶことができます。例えば、アメリカ合衆国の研究型私立大学である「ハーバード大学」では、専門的なハイ・レベルの授業が行われています。内容的には日本では防衛大学校でなければ、受けられない内容です。
プロイセン軍将校であったカール・フォン・クラウゼヴィッツは『戦争論』の中で、このように記しています。“戦争の粗暴さを厭うあまり、その本質に眼をそむけようとするのは、無益な努力なだけでなく、道理に合わぬ努力でさえある。
クラウゼヴィッツは人間社会において、戦争や暴力的な事態のが発生が不可避であり、それを前提として受け入れないことを無益だと断じているのです。
海外の大学では英国ロンドン大学、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学、仏国ソルボンヌ大学などが有名です。
こう説明すると、欧米諸国が好戦的な国民性の表れだと受け止める人もいるかもしれません。しかし、大学で戦争について学問的に探究されるようになったのは、世界大戦を経験した反省から始められました。戦争を再び起こさないように、平和を維持するために戦争を研究するようになったのが最初なのです。
クラウゼヴィッツの言葉を「戦争」から「病気」たとえば「ガン」と具体的に入れ替えるとわかりやすくなると思います。
“ガンの粗暴(悲惨)さを厭うあまり、その本質に眼をそむけようとするのは…”となり、悲惨であるからこそ研究し克服しようとするのであり、戦争を学ぶのは病気の研究と同じ次元のものだとされているのです。
イギリスの軍事評論家、軍事史研究家、戦略思想家であったリデル=ハートは、「平和を欲するなら、戦争を理解せよ」という言葉を遺しています。
今現在、日本の大学で専門的に「戦争学」を教えているところはありません。これは、戦後の平和主義や左翼扇動家たちの影響ではないのです。日本では「戦争」は「軍」だけが学ぶという認識があり、大学等では全く学ぶ機会すらありませんでした。軍歌は流行っても、その中身を国民は全く理解していなかったのです。「ゼロ戦」は知っていても、「ゼロ戦」を有効活用するためには何が必要かはわかっていませんでした。
そうした知識の欠落が、「大和」を不沈艦と崇め奉り、後には「宇宙戦艦」にまでしてしまうのです。「大和」が実は、いかにコンパクトに収めるか技術者の知恵が結集されたと知る人は少ないことからもわかります。
こうした無知が、かつての戦争では焼け野原になってもなお「勝利」を信じる日本人が少なくなかったことに繋がります。
ということで、わかりやすい面で「軍事」についてお話していこうと思います。